共感したい人と問題解決をしたい人はぶつかる
共感してほしい意見も問題解決をしたい意見も分かる。
自分の中には2つ領域があって、問題解決をしないと意味がないコアの領域と共感してくれれば十分な周辺の領域とが存在する。
だから、人が踏み込んでくる領域を間違えなければ快適だ。
今回以降では、その2つの領域があることで、正直共感と問題解決に対してどう感じるのかを書いていきたい。
頼んでもいないのにアドバイスされても困るんだよ
本当に申し訳ないが、求めてもいないのにアドバイスされると「お前のアドバイスは求めてねえよ」となる。
特に仕事じゃない時に、雑談で言ったことに対して「え何で? 普通こうじゃないの? 何でそうなるの? こうしたら?」なんて言われたらたまったもんじゃない。
「どう思うか?」を聞いただけなのに「こうしたらいいよ」と返ってきたら、「ちがう」となる。
「こうしたらいいよ」という答えが欲しいなら、「どうしたらいいと思う?」と聞く。
「こうなんだよね」と状況を共有しただけなのに、「何でそうするの? こうすればいいのに」と言われると、「ちがう」となる。
「こうすればいいのに」という答えが欲しいなら(正直あんま欲しくないけど)まず自分がそうした理由をこちらが添えて話すし、「これって合ってると思う?」などという言葉で聞く。
解決してほしいならそういう言葉で話すから。
大体、問題解決は自分でする。
解決策は自分で立てる。
大前提。
そんで大概自分でどうにかなる。
最悪、時が解決してくれる。
その人が提示した策は万人に当てはまるわけじゃない。その人には合うだけ。
だとしたら、私にカスタマイズされた解決策を出してくれる方がいい。
今の時代ググればいくらでも出るし、何ならChatGPT(課金済)としばらく会話すれば出てくる。
お前のお前の主観によるお前の主観というフィルターを通した解決策は求めてない。
それが相談なら別。
本当に、主観でもいいからあなたの人生を支えてきた解決策を教えてくれよ。先生。師を仰ぐ。
相談は最短経路を求めているが、雑談は寄り道を求めている。
その違いだ。
そんで、あと、もしもいじってるだけなんだとしたら「こうしたら?」は余計だ。
からかうだけならお前の正解はいらない。
私の行動の結果を上手にいじっておくれ。
正解を叩きつけないで。
入力と出力のパターンはある程度定義されている
「これが相談なら」「アドバイスが欲しいなら」「こういう答えが欲しいなら」という条件によって、受け取る印象が変わってしまう。
これは私が自分の中に持っている関数がそうだからだ。
私は私なりに想定された出力を得るための入力が決まっていて、想定外の出力になった時「ちがう」ってなってるだけなんだ。
アドバイスという出力、とか、問題解決という出力が欲しいなら、それ用の入力(聞き方)が存在する。
共感という出力が欲しいなら、それ用の入力(言い方)が存在する。
関数って仰々しい言い方しやがって、というふうに思われるかもしれないが、こうしないと自分が自分を理解できないので関数という概念を使って体系化している。
関数の処理は時に遅い
「ちがう」って感覚は、きっと、自分が持っている想定出力と違う時に生まれるんだろう。
その想定は、これまでのコミュニケーションの経験から培った。きっと。
そしてこれからも変化していく。
「ちがう」ってなった時に、仕事ならば、どこが違うかを割と早く言語化できる。問題がこれだって確実に分かってて、言語化できるから。
でもプライベートの、周辺の領域ってもっと感情的でふんわりしていてあんまり上手く言語化できない現象が多い。
だから、ふんわりした領域のことで「ちがう」ってなってしまった時に急に処理できないんだ。
「どう違うのか」を上手く言語化できない。
感情って非言語的で繊細だから。
無駄に共感されても何も分かってないくせにと思ってしまう
本当に厄介。
1回人間やめた方がいいくらい厄介。
さっきは「お前のアドバイスなんか求めてねえんだよ」ってケンカを売ったくせに。
今度は「お前に何が分かんの?」とケンカを売っている。
本当にさ。
1回やめてこられる?笑
つづく